大人への形容2015.05.13

大人になりたいという幼稚な願いをもつ自分を愛おしんでいるようでは、大人になることはできない。

この赤い書物は、幼稚さを纏う。ロナルド・レインが精神医学者として「目にした模様」を「詩集の体裁」にまとめた一冊が『結ぼれ』である。

「ジャック」と「ジル」は、男らしき人間と女らしき人間を示す記号として、無人格に登場する。彼らからうかがえるのは瞬間的な感情と思考のみで、その連なりの結果にうまれる人格が見当たらない。大きな欠如を抱えた二つの主体は、相手を察しながら相手の考える自分を察する。意識の混交を延々と繰り返す。

「ジャックは思う/自分が思っているのはどんなことなのか/自分は知らない、と/彼は知らないと/ジルは思っている、と/しかしジルは思う、ジャックはそれをたしかに知っているのだ、と。/そこでジルは知らずにいる/ジャックはたしかに知っているのだと/ジルが思っているのを/ジャックが知らずにいるのを/彼女自身が知らずにいるのをーー」。

不毛な連続性は、おぼえたての言葉を繰り返すこどものようだ。事実の確認につぐ確認は、幼児的な執拗さを感じる。全篇を満たす人称代名詞の夥しさからは、幼い人間の世界に特有の偏狭さが連想される。

言葉は大人のものである。言葉をうまくつかえなければ大人にはなれない。『結ぼれ』をひきおこす言葉の心拍は、大人からすると、吃音のように危うく不安に感じられる。

「ジル」にとって目の前にいるのは「ジャック」であり、「ジャック」の目の前にいるのは「ジル」である。明白である。しかし、彼らは、「きみ(あなた)」は「ぼく(わたし)」ではないのだと突きつけあう。相手を呼びあう。わたしはわたしで、ぼくはぼくだという事実が、わからなくなるのを怯えている。

こどもは、言葉をおぼえて大人になる。ものの名前をたくさん知れば、世界から自分の存在を綺麗に掘り起こせると思っているのだろうか。自分のかたちをもつことが、大人になることだと信じて、必死に言葉をおぼえるのかもしれない。

大人は、書物という狭い世界に人間の姿を閉じ込めてあきらかにしようと企てる。一人の人間が人間そのものを知りたがるのも自己愛の一つであって、言葉を手に入れた大人がもつ幼稚な願いである。「幼稚」という形容はいつも、ほんとうのこどもにではなく大人にふりかかるのだ。

『結ぼれ』
ロナルド・D・レイン 著、村上光彦 訳
みすず書房 2004年新装版