塵の意味なき2017.04.18

割、分、厘、毛、糸、忽、微、織、沙、塵、埃。

(わり、ぶ、りん、もう、し、こつ、び、せん、しゃ、じん、あい。)

 一割は10分の一で、一分は100分の一。そして、一厘は1,000分の一。と、このままどんどんどんどんくだっていくと埃(ほこり)になってしまうらしい。


わたしの家には切り刻まれた本が何冊もある。ページをごっそり抜かれた本から、ところどころ言葉が抜き取られて虫食いになった本まで、たくさんある。他人事のように書いたが、ぜんぶ自分のせいだった。本を素材にした作品をいくつか作ってきたおかげで、こんなありさまになってしまっている。

しばしば、家の中で本の切れ端を拾う。本の切れ端だから、そこには文字がある。引き戸のサンの溝にぐじゃっとなった状態で「朝日」が見つかったり、洗面所のバスマット、柔毛の隙間に「のような」を見つけたりする。スリッパの中から「耳」が落ちてくる日もあった。

ただの塵だとは思いもせず、なにかに間違えもしない。本によって差はあるけれど、ページの紙のあの独特な色味、厚みのなさ。文字の黒い線の神経質な細さ。家中の目につく物々の中で異質なのだ。自分の行為がいつのまにか自然現象化して、新しい体験をさせてくれる。

考えてみると、わたしは作品を作っているつもりでいて、こっちの体験を作りだしていたのかと思えてくる。作品に用いる部分を本から選ぶ時、意図的な場合と無造作な場合の両方あるが、それは、選ばない部分を選んでいたとも言える。乱暴な飛躍かもしれないが、声として語るにせよ文字として記すにせよ、言葉をつかう瞬間には、発する言葉を選ぶと同時に、発しない言葉を選んでもいるのである。


バブバブ、マンマ、ママ、パパ・・・あの瞬間から今まで、言葉を発すれば発するほど、発しなかった言葉もまた増えていたのだ。ただ、どちらもよく覚えてはいない。発した言葉も発しなかった言葉も、今はもうない。

「言葉ってよくできていて、消えるんだよ。消えないけど。」

「なるほど、たしかに。」

こんな会話は最近の出来事なので、よく覚えている。あの時わたしは何に納得していたんだろう。よく覚えていない。

時は経つ。声も文字も、どんどんどんどん小さくなっていく。けれど、完全な無になったわけではない。埃か塵のようになんとなくまだ、どこかに在るのだろう。