言葉をみるために2016.01.15

はじめに

なにかを「言葉にしたい」と強く思うとき、「声にしたい」というわけでもなく、「文字にしたい」というわけでもない。「言葉にしたい」のだ。 このような自分の感覚に従えば、「声」や「文字」とはべつに、「言葉」という存在がかくじつにあるはずなのだが、まさに、この存在を言葉にすることができない。

字でもなく、声でもなく、言葉そのものを捉えることはできるだろうか。美術作品として造形をもちいることで、言葉をみることができるのではないか。この問いを動機に、制作をつづけてきた。

これまでの制作のテーマは、言葉が生成される場をつくりだすことだった。具体的な作品形態としては、文字を造形に取り込む立体作品、音声を用いたインスタレーション、グラフィック表現による視覚詩などである。 言葉をとりまく環境としての、造本・文字組・タイポグラフィの研究にも取り組んだ。それは、人が日常のなかで発する言葉とは、成り立ちがことなっていた。

古今東西、詩にはさまざまな規範が存在してきた。字数の制限、韻律や型。詩として成立するための絶対条件であるものから技法としてはじまり定型となった概念まで、枚挙にいとまがない。

人は、みずからの言語文法によって思惟や認識を支配されているが、言語に規範をあたえることで、むしろ自由な表現の媒体として言葉を扱うことができたのだ。つまり、人が言葉を支配できる唯一の瞬間は、 言葉を「表現」とした瞬間であり、そのために、言語の生成方法(枠組み)を創造してきたといえる。

そして、人が与えた枠組みによって生み出された言葉は、逆説的ではあるが、人の日常的な恣意だけでは生みだせない意味や情緒を孕むことがあり、人の言語感覚を刺激する鑑賞の対象となってきたのだ。

言葉の生成方法を探る。創造する。というのが、わたしの今までの作品制作に共通するテーマであり、修了作品においても言葉の生成される場を作ろうと試みた。 そして、これまでの言語芸術で試みられてきた、言葉の生成方法の創造という手法と同じ構造を持つことで、この修了作品もまた、言語芸術としてとらえられないかと考えた。

 

「万物照応」

本修了作品解説文では、修了作品と深い関わりを持つため、学部の卒業制作の解説からはじめたい。学部の卒業制作では、人と人が言葉のもとで対峙する場、「会話」をモチーフに、光学的な現象をもちいて、言葉の生成する場を、造形によって創作した。

学部卒業制作
『万物照応』
(2014年 プリズムシート、アクリル、綿 W900×D4000×H150)

人間と人間が言葉をつかいあうことを「会話」と呼ぶ。

「会話」は、話者である「わたし」という存在と共話者である「あなた」という存在によって成立している。日本語の場合、「わたし」は「おれ」や「ぼく」であったり、 同様に、「あなた」は「おまえ」や「きみ」であったりする。共話者が話者となれば、「わたし」と「あなた」の指示対象は入れ替わる。

「会話」の一瞬一瞬には、相手を察しつつ、相手の考える自分を察する。そこでは「相手」と「自分」という主体どうしの意識が混りあい、交錯する。 異なる主体の思考や感情が呼応する場。それがわたしの考える「会話」であり、オリジナルのテキストを制作した。以下は、「わたし」と「あなた」の交錯を主題としたテキストの全文である。

わたしはあなたの考えていることを感じ、わかる。
あなたはわたしの考えていることを感じ、わかる。

あなたが感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
あなたはわたしの考えていることを感じ、わかる
ということを、
わたしは感じ、わかる
ということであり、
わたしが感じ、わかっていたりわかっていなかったりする
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
わたしはあなたの考えていることを感じ、わかる
ということを、
あなたは感じ、わかる
ということだ。

わたしはあなたの考えていることを感じ、わかる
ということを、
あなたは感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない。

あなたはわたしの考えていることを感じ、わかる
ということを、
わたしは感じ、わかっていたり、わかっていなかったりする。

わたしが感じ、わかっていたり、わかっていなかったりする
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
あなたが感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
であり、
あなたが感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
わたしが感じ、わかっていたり、わかっていなかったりする
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
である。

わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
である。

あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
である。

あなたが感じ、わかる
わたしの考えている
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
わたしが感じ、わかる
あなたの考えている
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
であり、
わたしが感じ、わかる
あなたの考えている
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
あなたが感じ、わかる
わたしの考えている
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
である。

あなたが感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
あなたが感じ、わかる
わたしの考えている
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
であり、
わたしが感じ、わかっていたり、わかっていなかったりする
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
わたしが感じ、わかる
あなたの考えている
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
である。

このテキストを厚さ5ミリのアクリルの文字に起こした。そして、綿で作られた起伏の上に配置し、箱に収める。箱は、幅90センチ、長さ4メートルの長方形をしている。 表面には、波打たせたプリズムシートを被せる。プリズムシートとは、表面の凹凸によって光の屈折を起こす素材である。シートによって、テキストを構成する言葉が歪み、浮かび、重なる。 このしかけによって、テキスト上で「わたし」や「あなた」といった主格の交錯や重なりが起きる。さらに、わかっているのか感じているのか。または、わかっていないのか感じていないのか。 主体の状態についての記述は、複雑さを増す。

作品は、窓からの自然光が差し込む部屋に設置する。天気や時間によってプリズムシートに当たる光が異なり、文字の見え方や反射光が刻々と変化していく。 テキストの意味の変容には、鑑賞する個人の解釈だけではなく、外的な現象が介入する。観る主体にとって客体である作品が、ただ観られるだけの客体には終わらない。 むしろ観る主体にたいしてはたらきかけてくる客体として存在する。この現象を立ち上がらせる場を創りだすことで、「会話」における主体と客体それぞれが変化し続ける状態を表そうとした。

意識としての生存欲求

19世紀フランス象徴派の詩人ステファヌ・マラルメは、作品『骰子一擲』において、言葉の生成過程そのものを詩の表現とした 星座と形容されるその言葉の配列は、文法的順序を保ちつつも、線的にのみならず面的にも繋がり、近く遠く無限の関わりを持つ。ページを1ページづつ読むのではなく、見開いた状態を眺めなければ、 その詩句を受けとることはできない。本作『万物照応』では、マラルメの「視覚詩」の概念を参照しながら、素材と現象を用いて、 平面的な言葉の配置だけでない空間的な言葉の配置を表現に活かそうと試みた。一つの思考や情緒が線的に展開するのではなく、いくつかの思考が同時に展開されるという点で、 わたしが試みようとした複数の主体の複数の思考による「会話」の在り方を扱うにはふさわしい概念であると考えたからだ。

また、マラルメは「偶然性」を、積極的に詩に取り入れようとした。人間の恣意だけに依らない言葉に詩性を感じ、自分自身の表現においても、 そのような言葉の生成する場を作り出すことが目的であるわたしにとっては、とても興味深く、強い影響を受けた。

また、本作品タイトルである「万物照応」は、マラルメに決定的な影響を与えたシャルル・ボードレールの詩の題名「correspondances(万物照応)」をもとにした。 詩集『惡の華』に収められたこの詩は、自然と人間との共感、視覚や臭覚といった人間の感覚器官の相互作用、理性と感性との交わりを表す。 マラルメに潮流をなす、象徴主義の理論そのものとされている。だが、人間と自然、感覚と感覚、理性と感性、これらはみな、そもそもが、言語によって知覚、認識されている概念であると考えれば、 万物の照応というのも結局は言葉と言葉の呼応であると、わたしは考えた。

作品を作り終えて、考えたことがある。「会話」のなかにあらわれる「わたし」や「あなた」という言葉のうえでの主体の存在。それらにたいして抱く、自分自身のこだわりや関心。 この心理は他人と共有できる普遍性をもつのか。

主体は、それぞれ自らの内で言葉を呼応させる。そのうえで、主体間においての言葉の呼応がうまれる。そして、それは再び、個々の内なる呼応を引き起こす。 「会話」のなかで起こる言葉の反射や影響の連鎖は、状況を複雑にしていく。

わたしは、「会話」が複雑な構造を持つにつれ、互いの言葉の区別が薄れていくような感覚におちいる。自分は会話という現象の一部であり、その渦中においては、 言葉が飛び交う空間の反射板にすぎないと思えてくる。同時に、相手の対象化が停止し、合一するような快感を感じる。

わたしのみならず、人間は、身体として、生物として、生存欲求を持つ。同じように、「会話」をしている人間は、発話行為のなかに「わたし」という人称代名詞を存在させることで、 意識としての生存欲求を満たしているのではないか。発話行為における「わたし」の使用は、本能的な欲求に依るのだと考えた。

人の会話、会話の進行と関係の変化にともなう個人個人の感情や思考の展開は、「情緒」によって成り立っている。「情緒」とは、人には解析しきれない厳密な辻褄と秩序である。 身体器官としてもまた、人はひとつの秩序そのものともいえるが、人がもつ言葉にもメカニズムが存在する。

また、そもそも人は自身の言葉の主体でありえるのだろうか。言葉が生まれるためには、主体にとっての客体という、自分以外のすべての現実から影響を及ぼされていなければならない。 「会話」という場では、主体は言葉の所有者ではなく、秩序を構成する一つの装置にすぎないのではないか。言葉を生み出す可能性を持った装置、すなわち人間が、複数関わり合うとき、 言葉は言葉を導き、関わり合いを変化させつつ、その変化もまた新たな言葉の導き合いを生むのだ。これこそ、わたしが考える「万物照応」であった。

学部卒業制作『万物照応』では、「わたし」や「あなた」という言葉のうえでの概念にこだわりをもつことは、意識としての生存欲求による本能であるという考えにいたった。 その一方、「会話」という言葉が行き交う現象のなかでは、主体は言葉の反射板にすぎないという考えをもつことにもなった。「わたし」や「あなた」という概念のなかで、 自らを生存させようとしながらも、言葉の反射のなかに自らを消滅させていくような快楽を求めてしまう。発語しつつ、音声言語として消滅することを一方で願っている。 「会話」という現象のなかでのわたしたち人間は、無意識のうちにそんな行為を行っているのだろう。

修了制作では、ひきつづき、言葉が生成するしくみを創作するとともに、言葉の一つの姿である「声」について考えた。

 

「BABEL」

修了制作
『BABEL』
(2016年、映像インスタレーション)

みよ、彼らは皆一つの民、一つの言語である。
そして、彼らのなし始めたことがこれなのだ。
いまや、彼らがなそうと企てることで彼らには及ばないことは何もないであろう。
さあ、われらは降りていき、そこで彼らの言語を混乱させてしまおう。
そうすれば、彼らは互いの言葉が聞き取れなくなるだろう。

(『旧約聖書』創世記第11章)

人は、自らの声によって自身をひき裂いている。

声によって、言葉を発した者になると同時に言葉を聴く者にもなるのだ。ひき裂かれることで、うまれる葛藤。自分が発した言葉は、ほんとうにふさわしかったのだろうか。 人間は、言葉によってわかりあえるのだろうか。

ただの音であると思っている声も言葉であり、言葉であると思っている声もただの音であるというような、一音一音のふたしかさは、人間どうしが言語によって わかりあえたりあえなかったりすることの起源であるように思う。 本作『BABEL』は、このような考えから、制作をはじめた。

口にする、耳に入れる、音。音はいつから言葉になるのか。

たとえば「東京駅」という文字を見たとき、「トウキョウエキ」という音が頭に浮ぶ。正確には、音かどうかは判らない。だが、人は言葉を、文字や音以外に把握する術を持たない。 だから、やはり「トウキョウエキ」は文字ではないし、音のような気がする。空気を揺らさない音だ。言葉が音になった状態を声と呼ぶならば、「トウキョウエキ」は、空気を伝わらない「声」である。 文字でも音でもない言葉の在り方なのだ。

口から発せられる以前の思考や感情は、言葉にならない何かではなく、やはり「声」としての言葉である。沈黙の中にしかない言葉だ。 沈黙を停止させるように「声」をなぞり、言葉を実際に口から出してみる。

だが、大抵の場合、声は「声」をうまくまねできない。空気を揺らす声に変換できない。

いつのまにか身についた癖としかいいようのない言語文法、会話の儀式性、習慣に縛られた発声が、邪魔をする。

「声」は、沈黙のなかで言葉と同一であり、まったく全てを言い得ていたはずなのに。

かつて発せられた言葉を思い出すときもまた、頭の中に浮かんでくるのは、文字というより、音だ。発した者の身体から切り離された声は、記憶する他者の中で、「声」となる。 発する者と記憶する者のどちらにも所属しない状態の言葉は、両者の区別を溶かしていく。所有者の曖昧な「声」として再生され続ける。 だが、「声」をあたかも自分自身の言葉かのようにふるまうと、どこか不自由さを感じる。「声」においてもなお、他者の言葉との隔たりが生じる。 しかし、その隔たりによって、「声」がかつてはいきいきと空気を揺らした言葉であった記憶が甦る。そして、発した者が生きた時間が、たしかになる。 記憶する者の存在が、浮きぼりになる。この「声」の存在は、生身の人間のなかから言葉が生み出される、言語というかたちのないものと身体とをつなぐものである。 言葉が通じるということは、「声」という身体現象を共有する人間と人間のつながりの証明でもあるだろう。

「声」を発することと言葉が生まれることの関係を考えるなかで、哲学者ジョルジョ・アガンベンの考えを参照した。

声という概念は単に音として理解されるべきものではない。かりに、あらゆる音の意味を理解できてしまうのであれば、 わたしたちはけっして言語を獲得しなかっただろう。だが、そうではない以上、私たちはつねに音を意味に変換しようとする。それは、耳に聞こえる音素を捉え、それをシニフィアン(単語)とし、 そこから意味を引き出すということである。声とは、意味を展開させ言語を意味あるものとするにあたって取り除かなければならない当のもののことである。

これのプロセスは私たちからすべての声を取り除き、言語の中心、語ることの中心に本質的空隙を作り出す。言語が生起しているということの内に体現されるこのプロセスを〈声〉と呼ぶ。 この〈声〉はもはや声ではないが、正確に言えば意味でもない。それは単なる言語行為であって、これこそが存在と時間の基礎になる。

(アレックス・マリー 2014年 『ジョルジョ・アガンベン』青土社 高桑和巳訳)

そして、日本語を母語とするわたしが「声」をとらえようとしたらどうなるのか、考えをはじめた。

口にする、耳に入れる、音。音はいつから言葉になるのか。

たとえば、「あ」「い」「う」「え」「お」といった一つの音という単位は、それらが属する日本語の仕組に則した数え方に過ぎない。 「あ」「い」「う」「え」「お」は、音そのものではなく、音をある一つの方向から見たときの呼び方(名前)なのだ。

世界を対象化し、分類し、名づけるのが言語だとすると、言語を構成する要素の一つである音自身もまた、言語の仕組みに則して分類されることで数えられるようになり、その結果、名前を持つ。

音が名前で呼ばれたとき、その名前をもってして、音は声となり、言葉になる。

人は、自分の耳に慣れない外国語を聞いた時、発語者の純粋な「声」を聴いたような気になる。また、それをまねして自分で発音してみたとき、ほんとうの意味での人間の「声」のような気がする。

ここで、いくつかの声の存在を想定した。

■発する者にとっての
・言葉として意味をもつ声
・言葉として意味をもたない声

■聴く者にとっての
・言葉として意味を理解できる声
・言葉として意味があるであろうと推測でき、なおかつ意味が存在する声
・言葉として意味があるであろうと推測でき、しかし意味が存在しない声
・言葉として意味がないであろうと推測でき、なおかつ意味が存在しない声
・言葉として意味がないであろうと推測でき、しかし意味が存在する声

作品において、これらいくつかの声をたちあがらせようと考えた。いくつもの声が発せられることで、声と声の重なりから漏れた部分におとずれる沈黙。 この沈黙を求めようとしたのだ。つまり、「声を取り除き、言語の中心、語ることの中心に本質的空隙を作り出す」(前述引用より)行為である。

まず、日本語以外を母語とする者を対象に、日本語の50音「あ」から「ん」までと同じ発音の言葉が母語に存在するか、アンケートをおこなった。そして、アンケートをもとに音声の録音、収集をした。

■対象
・日本に滞在しながら日本語学校に通う者
・日本に長期的に在住し働く者
・街頭で声をかけた旅行者
・年齢、性別、国籍はランダム

■方法
・言葉の取捨は対象の任意。
・発音が同じであるかどうかは、対象の感覚に任せる。
・対象は、○○語話者の代表としてではなく、○○語を話す一個人として扱う。
・「あ」から「ん」までの順番通りに、自身で書いた言葉のみを発語してもらう。

彼らの発した声は、文字で構成された3つの映像とともに暗室で流される。映像は、背面透明フィルムを貼ったアクリル板に、プロジェクターで投影される。 1枚のアクリルのサイズは60インチである。それぞれ人の目線の高さに吊られ、3つの映像は横並びとなる。 背面透明フィルムを貼ったアクリル板を用いることで、映像のなかの文字に浮かんでいるような印象をもたせた。

50音は、発せられなかった音を含めて、「あ」「い」「う」「え」「お」の文字とともに一定の拍で続いていく。発せられなかった音の拍では、無音がおとずれる。 さまざまな言語話者たちによる外国語なまりの「あ」「い」「う」「え」「お」が、ループ再生によって次々現れていく。

三つの画面内容は以下の通りである。

■画面A

発せられた言葉の意味とひきかえに、50音表からは一文字づつ「あ」「い」「う」「え」「お」が消えていく。意味の存在しない場合は、間が残される。 50音表をもとに、最終的に浮かびあがる言葉の並びは、言語によってまったく異なる。たとえば、4つの声調によって、一音に4つの意味がうまれる中国語では、 画面いっぱいに言葉が現れる。しかし、フランス語のように日本語の「あ」「い」「う」「え」「お」と同じ発音で、意味の存在する言葉が少ない言語では、間の目立つ言葉の並びとなる。

また、同じ言語であっても、話者個人の感覚によっては、選ぶ言葉が違っていたり、間のできかたもさまざまであったりする。

■画面B

発せられた言葉の意味とその発音記号が現れる。わたしたちには「あ」「い」「う」「え」「お」として聞こえてくる音も、ほかの言語では違う呼び名と意味があると示される。 発音記号は、国際音声記号(International Phonetic Alphabet: IPA)を使用し、中国語のみ拼音を用いた。

■画面C

「あ」から「ん」までの文字が、一定の拍で映しだされていく。日本語以外の言語として発音された音は、ひらがなの一文字一文字を目にしながら聞くことで、 日本語のなまったかたちのように感じられる。むしろ、この文字を見なければ、日本語の50音のなかに存在する音には聞こえないような言葉もあり、 対象の母語と日本語との結びつけ方に驚くこともある。

ここで、最終的に画面Aにあらわれる言葉の並びについて考えたい。

これらは、日常ではまず結びつくことのない言葉たちである。50音という枠組みを介することによって起こる日本語とそれ以外の言語との衝突。 そこに存在する個人の言語感覚や感情の影響。わたしは、生成の場を日常とは異なる状況に追い込まれたこの言葉たちに、詩性を感じた。 この言葉たちとその生成過程である本作を、言語芸術としてとらえたい。

いわゆる日常の言語文法というものとは違った秩序のなかから言葉を選び出し、組み合わせていくのが詩であるならば、 本作『BABEL』の制作過程は詩作であり、画面に現れる文字と、流れ続ける声は、詩そのものととらえられる。

 

声を聴いたわたし、声を発したかれら

本解説文冒頭でも述べたように、これまで、詩にはさまざまな規範が存在してきた。字数の制限、韻や型、成立の絶対条件であるものから技法としてはじまり定型となった概念まで枚挙にいとまがない。

かつて、アンドレ・ブルトンの行った詩作オートマティスム(自動記述)は、眠りながらの口述や高速で文章を書く実験だった。意識の朦朧とした状態や、 時間内に原稿用紙を埋めるという過酷な状態をつくりだすことで、美意識や倫理といったような意識にもとづく人間の恣意だけに依らない言葉を作り出すことが目的である。

本作『BABEL』は、制作方法や成り立ちについて、言語表現において試みられてきた手法と同じく、生成過程にある枠組みを介入させるという構造をもちながら、そこに一個人としてのさまざまな言語話者たちをまきこんだ。 作者が規範をつくりだすことで、人間の恣意だけに依らない言葉の組み合わせがあらわれるのだ。このような言葉の生成する場としての本作は、新しい言語表現の可能性をもっている。

また、本作の制作過程において起きた現象についても、言語的現象として重要なものだと考える。

今回アンケートに参加した対象たちの、なにを発音し何を発音しないかという判断にかかわるのは、日本語とそれ以外の言語という、文化を背負った巨大な存在どうしのぶつかりだけではない。 個人の言語感覚が大きく発語を左右するのは当然だ。そればかりではなく、言葉を発する瞬間の感情。そのためらいと揺れのような繊細な要素が強く影響している。 この技法や定型からはみ出そうとする、人間の心の揺らめきを本作では捉えたいと考えた。

かれらは、アンケートによる音声の録音収集の際、さまざまな葛藤を経験したであろう。

■かれらの葛藤
今回の制作にともなうリサーチから、4項目を指摘できる。

●「わたしが発語しないこの音は、日本語において意味をなす単語であるかもしれないし、そうでないかもしれない」語学的葛藤
●作者との交流といった社会規範のなかでの意味論的葛藤
●日本語が上手だと思われたい、うまく録音できなかったら怒られるのではないかといった感情的葛藤
●対象がもつイメージの中の日本語の音、対象がもつイメージの中の母語の音、二つの音が似ているか似ていないかという語感的葛藤

さらに、声を聴くわたし自身にも、以下3項目の感想が生まれた。

■わたしの感想
●かれらは、自分で記入した母語を読む際、ほんとうに母語におけるその音の意味をイメージしながら、その音を発音しているのだろうか。
 「おなら」「おしっこ」といった母語が通じ合う間柄では口にするのが「恥ずかしい」であろう意味を持つ言葉を、かれらは何食わぬ顔で発音している。 たとえ母語の発音であっても、50音表の枠組みのなかで発音することで、それらはもはや対象にとっての母国語ではなく、実感できる意味をもたない外国語同然なのかもしれない。
●かれらがこのアンケートと録音を楽しむ理由はなんなのか。
 日本語学校でのアンケートでは、事前に約束をして集まってもらった学生が用紙記入や録音を行うのを見て、ほかの学生が参加を希望することが多かった。 また、同じ母語を持つ対象どうしが、いかに自分が多くの言葉をみつけられるか。お互いが競い合う場面が見られた。言語的遊戯として、人が言葉を遊ぶ感覚に普遍性はあるのか。
●母語といっても、日本語をどの程度身につけているのか、そして、日本語以外にも獲得、または習得中の言語の有無や種類によって、対象の母語の在り方も変化してくるだろう。 母語とはいったい何を指すのか。同じ言語を話しているように見える人々も、個人個人の言語を持っているというよりほかないのではないか。

以上は、全体としてそれ自体が、言語学でいう意味論の問題に内包されているといえる。わたしは、ある言語と言語の差異、個人の言語感覚や障害による言語能力の違いに優劣を認める立場ではない。 言語の変容段階や習得状況に進化・退化、優劣といった段階は存在しないという前提で話を進める。

■録音にあたって、彼らへのリサーチとフィードバックの過程のなかで感じたこと

かれらの外国語なまりの「日本語」もたしかに日本語であって、言語に完全なかたちはないのではないか。外国語なまりというのは、その言語のイントネーションの特徴の現れだけでなく、文法構造に影響を受けた崩れ、乱れ、歪みの傾向である。 本作においても、「あ」「い」「う」「え」「お」を聞いただけで、なんとなく、「〇〇語っぽい」というようなことが思いついた。 外国語なまりの日本語は、何語であるかというよりも、一個人の言語であるといえよう。一定の日本語の習熟度を超えた段階では、間違い方にもその人物の人格に基づく言語観があらわれているように感じる。 また、日本人であるわたしと彼らのあいだで交わされる言葉は、規定されたひとつの言語の文法構造から解き放たれた印象を受ける。

個人と個人のあいだで、お互いに言葉が通じるか、そして、その結果、意思が伝わるかという目的のためだけに、個人間での文法が瞬間的に生成される。 これは、「人間が言葉を交わす」・「人間が他者に何かを伝える」とは何かといった、言葉の存在の本質的問いに迫る現象ではないだろうか。

たとえば、かれらの間違った日本語を聞いたわたしは、正しい日本語を使うよりもその間違い方を模した日本語を使用することで、伝達がうまくいくと判断し、意図的に間違った日本語を使う。 この言語は、日本語の未完成の状態ということではなく、かれらとわたしだけの一つの言語なのだ。インターナショナル・スクールで使われる英語と日本語の混在した「ことば」はその一例である。

また、国や民族の文化、風土、暦などを大きな背景としたあるひとつの言語は、その背景をともにする話者の世界の解釈のあらわれともいえるだろう。 母語以外を身につけるということは、世界の解釈の結果である一つの外国語を、さらにまた異なる世界の解釈の結果である母語によって翻訳、つまり解釈をし直すということでもある。 解釈結果の解釈という構造をとるのだ。

また、かれらは、習った文法をきっちりと辞書的な規則通りに用いるがゆえに、会話中に同じ文法構造を持ったセンテンスを何度も繰り返す。それが、韻律や定型のようになり、詩的に感じられる。

意味がわからない言語を聞いたときでも、その言葉の抑揚によって、感情が読み取れることもあった。しかも、多くの言語において、抑揚と感情の結びつき方は似ていて、普遍的なものを感じた。

一方、これとは矛盾する事態でもあるが、かれらとの会話においては、言葉の意味がわかるということが、そのままその人の感情がわかるということにより強くつながっている。 日本語話者どうしの場合、言葉の意味がわかっても、その人の言いたいことがわからない場合がある。ニュアンスをつけたり、他者と共有できる辞書的な規則ではなく、自分の感覚を納得させる主観的な言い回しをしたりするからだ。 しかし、日本語に不慣れなかれらは、文法の組み合わせがわかりやすい分、意図がよく伝わるのだ。感情が文法に埋もれてしまわない。 つまり、「片言」とは、文法と感情がより強く結びついた状態なのではないか。イントネーション、すなわち言葉の抑揚やリズムが感情に結びついておらず、繊細なコントロールができないのが「片言」という状態であり、 文法構造が唯一、自分の「言いたいこと」をのせられる、頼れる要素なのだろう。自分の母語であると、その言語の規律にしたがった文法構造に頼るのを忘れ、 「言いたいこと」と文法の組み合わせが、自分だけの主観的なとりあわせになってしまうのだ。

この事態が、意思疎通を阻んでいることもある。

「片言」は、規律にしたがった構造に頼るしかないことで、そういったノイズが少なく、「言いたいこと」の本質が見えやすいともいえる。 自由自在に文法やニュアンスを取り扱えるということが、コミュニケーションという観点では、必ずしもその言語を支配していることにならない場合があるのだ。

この作品の制作を通して、声を聴いたわたし、声を発したかれら、作品の成立そのものが、すでに「言語的」「人間的」であり、人はいつでも言語的で在ってしまうということが実感できた。

 

「ふさわしさ」について

ここでふたたび、アガンベンの言説を参照したい。

その人はそれが何を言おうとしているのかわからないため、その意味を知りたいとおもうだろう。 しかし、このためには、その人は自分の聞いた音が空語、単なるテーメートゥムという音ではなくて、意味をもった音であることを知っているのでなければならない。

人間の言葉は「意識の声」である。言葉のうちにあって意識は現存しているのであり、実在性をあたえられているのであるが、それは言葉が分節化された声であるからにほかならない。 動物の「空虚な」声のなかで、あらゆる音は意味を獲得し、名前として、自分ならびに名指される物の直接的な非-現存として現存する。

(ジョルジョ・アガンベン 2009年 『言葉と死』筑摩書房 上村忠男訳)

かれらがアンケート用紙に見た50音表は、空語ではない。わたしたち人間は、意味を求める。声を言葉として聞きたいという欲望がある。 意味がまだわかられていない段階のたんなる音節としての音、言葉であることはわかるが意味がわかりきらない状態の音、両者の境目にこそ、言葉の本質を見出せる可能性があるのではないか。

ここで、はじめの考えに戻りたい。以下、冒頭からの引用である。

人は、自らの声によって自身をひき裂いている。

声によって、言葉を発した者になると同時に言葉を聴く者にもなるのだ。ひき裂かれることで、うまれる葛藤。自分が発した言葉は、ほんとうにふさわしかったのだろうか。人間は、言葉によってわかりあえるのだろうか。

ただの音であると思っている声も言葉であり、言葉であると思っている声もただの音であるというような、一音一音のふたしかさは、人間どうしが言語によってわかりあえたりあえなかったりすることの起源であるように思う。

「ふさわしさ」といっても、いったい何とつり合いをとろうとしているのか。自分の感情や思考とであろうか。声は、他者に届くよりも速く、自分自身によって聴かれ、自らの「言いたかったこと」と照合されている。 だが、そもそも「言いたかったこと」が、自分の言葉に先立ってすでに在るのかどうか、曖昧である。

曖昧なものとの照合である以上、「ふさわしさ」の確信が得られる望みは薄い。

にもかかわらず、なぜ人は「ふさわしさ」を求めるのか。

言葉が他者とのコミュニケーションのための道具であるという理由ではないだろう。「ふさわしさ」は、精神的な生存欲求によって希求される。 声を発することによる、言葉を「話す」「聴く」という動詞のもとでひき裂かれる自意識は、「ふさわしさ」によってせめて、自身を揺るぎないものだと信じようとするのだ。

そして、「ふさわしさ」を感じることができているとき、言葉がほんとうに交換できているとき、厳密に言えば、できているような気になれているとき、相手が自分の中に入り込んでくるような、自分が相手に溶け出していくような、 自分と他人の区別がなくなる感覚を得られるだろう。自己と他者という明確な区別が在るからこそ、言葉をつかい合い、しかも自我が曖昧な領域へと躍り込む行為が可能である。 だが、言葉をつかい合う行為によって、自己と他者という区別がないように感じるほどの「ふさわしさ」を得ようとしているのだ。

精神的な自己生存欲求。自己による他者への埋没と他者による自己への侵入による精神的な自己消失の快楽。両者は相反するように思えるが、互いが互いの成立を支えている。

自分はこういう時にこう思い、こう考え、こう動くのか、という発見と気づきの連続で、「わたし」が拡張する。現実が遮断されれば、「わたし」も消滅する。現実の数だけ自分が現れる。 数ある現実の一つが他者であり、精神的な自己生存欲求につき動かされて、人は他者と交流する。

他者を失うことは、それまで拡張されてきた自分が失われることである。他者の身体的な消失(つまり、死)は、自分の一部を亡くすような苦しみであるというが、それは悲しみの比喩ではないのだ。 まさに、自分をかたちづくる数ある現実の一つを失い、自分を欠く経験といえるだろう。 その恐れのために、言葉によって、自分(自分を構成する出来事や言葉も含めて)を他者と共有することに安心感を覚えるのかもしれない。 自分の言葉が、自分をかたちづくる現実との「ふさわしさ」を得たとき、自分の信憑性をたしかなものとして感じることができるのではないか。

ここで、活字という光学的な表現のかたちをも持つ言葉を、角度を変えて考えてみる。「目」を手がかりに、「ふさわしさ」について考えてみたい。 「目を奪われる」という表現は、字義通り、眼球を取り除かれるという意味ではなく、心がある対象に惹かれ無意識のうちに視線を集中させてしまうという意味で用いられる。 また、「目を向ける」という表現は、対象に視線を投げかけるという意味だけでなく、意識や思考のはたらきを表している。「目」についての言い回しの多くは、 人の心や意識の在り方を示す機能を持つ。「目」とは、身体でありながら身体でない存在を表徴しているのだ。

詩人ゲーテは、目と光と、二つの呼応の結果である色彩について思考している。そして、『色彩論』において、新プラトン主義の創始者プロティノスの詩を引用しながら述べている。 (以下、ゲーテ『色彩論』より)

眼が眼であるのは光のおかげである。動物の取るに足らない補助器官のなかから、光は光と同一な一つの器官を作り出した。 つまり内なる光が外なる光に呼応すべく、眼は光に即し光のために自らを形成したのである。ここで思い出されるのはイオニア学派のことである。 この学派は、ものとはそれと同一のものものによってのみ認識されうるという深い意味を込めていくたびも語っていた。 また、ドイツ語の詩に直してお目にかければ、古代のある神秘学者はいみじくもこう歌いあげていた。

もしもこの眼が太陽でなかったならば
なぜに光を見ることができようか
われらのなかに神自身の力がなかったならば
神的なるものが
なぜに心を惹きつけようか

ここで述べられる「眼」とは身体としての「目」でありながらも、「目」が表徴する心や意識といった身体でない存在のメタファーでもある。

身体としての「目」は、見るために対象との間に距離を必要とする。目という見る主体と対象物が接していたら、見ることは不可能であるからだ。 距離は、身体としての「目」が見ることを可能にする。では、身体でない「目」に見る可能性を与えるのは、何か。それが、言葉であると考える。

身体器官としての目が世界を見るためになくてはならない「光」を〈言葉〉、見る主体である「眼」を〈わたし〉として、ゲーテの言説とプロティノスの詩に代入しながら考えたい。

《〈わたし〉が〈わたし〉であるのは〈言葉〉のおかげである》。わたしたちは属性・感情・思考・記憶といった、言葉による観念や概念によって輪郭をなし、他者についてもそれらをもとに認識している。 しかし、だからといって言葉以前に世界が存在しないわけではない。

《〈言葉〉は〈言葉〉と同一な一つの器官》、つまり、言葉を解する人間を作り出した。そして、《内なる〈言葉〉が外なる〈言葉〉に呼応すべく、〈わたし〉は〈言葉〉に即し〈言葉〉のために自らを形成した》というように、事物事象が秘める本質と、 それを感じとる素質を持った人間とが呼応し、言葉を引き出しているのだ。《ものとはそれと同一のものものによってのみ認識されうる》ということである。

「うまく言えない」、「言い尽くすことができない」、こういった言葉の「ふさわしさ」にかかわる感覚は、言葉、すなわち距離の在りようによるのだ。言葉は距離として、わたしたちと事物事象の本質とを隔てる。 距離を持ち、隔てられることによって見えるようになるが、同時に見えづらさや錯覚の可能性をも背負う。

「うまく言いたい」。この望みは、同言語間、異言語間を問わずにうまれる感情なのだ。それは、本作の制作過程で身をもって感じたことでもある。そもそも、人間がなにかを「うまく言いたい」という感情をいだかなければ、 言語文法は整わなかったであろうし、存在さえしていなかったであろう。

本作のタイトルであり、言語的混乱発祥の地の名「babel」は、「babble」という言葉を生んだ。 たわごとやとりとめのないおしゃべりを意味し、バブバブという喃語を表す擬音語でもある。わたしたちは、どうしても言葉に真剣になってしまい、すべてがくだらないおしゃべりだと笑ってやりすごすことができない。 塔を壊され、一つの民一つの言語が失われなくとも、わたしたちは充分な混乱の中で、言葉に苦しむことになったはずだ。

本作『BABEL』を制作するなかで、学部卒業制作『万物照応』で扱った言葉のうえでの主体の生存欲求についてあらためて考えた。異言語間での言葉の交流を実際に経験することも貴重な経験となった。 また、言葉の生成過程を操作するという点で、これまでの言語表現において試みられてきた手法と同じ構造をもちながら、そこに一個人としてのさまざまな言語話者たちをまきこんだ。

作品がかたちとなった段階では、人間の恣意だけではうみだすことができない言葉の並びを作り出すという目的を果たした。そのためのしかけに、さまざまな言語話者たち、個人個人の思考や感情をもとりこんだことで、言語芸術における言葉の生成方法としての新しさを感じた。 作者が規範をつくりだすことで、複数の主体がうみだした意図しない言葉の組み合わせが生まれる。このような言葉の生成する場としての本作は、新しい言語表現の可能性をもっていると考える。

 

今後の研究テーマ

『人工言語による言語芸術の可能性』─岩崎式日本語の詩的展開─

修了制作を終えて、今後も言葉の生成する場を創造したいという気持ちを強くした。また、そのしかけのなかに言語を使う生身の人間をまきこむことの可能性も、実感した。

人の思考は、その者のもつ言語構造によって統べられていると考えている。言語構造、つまり、文法は、詩や小説といった言語芸術において素材や手段とされてきた。 しかし、今後わたしが制作していきたいのは、存在自体が表現としてなりたつような言語文法である。つまり、文法そのものを新しい表現メディアとして扱うことはできないかと考えた。 文字でもなく、声でもなく、文法構造によって「言葉とはなにか」を自己体現した言葉を作品としてつくりだしたい。 また、その制作においては、過程から結果としてあらわれる作品にいたるまで、すべてが言語的でありたい。

わたしがこれからの研究テーマにしたいと考えているのは、芸術作品としての人工言語の提示。そして、その言語がなぜ表現といえるのか理論的に述べることである。

提示したいと考えているのは、『岩崎式日本語』という人工言語だ。言語研究者である岩崎純一氏が、精神疾患の研究のために考案・制作した。 人工言語は、古今東西多く存在しているが、『岩崎式日本語』は、非常に閉鎖的なコミュニティの中で使用されている。 芸術言語として、自分以外の個人や集団を補助するために制作された点でもユニークといえる。 また、論理学的・記号学的に文法が構成され、精神疾患者の使用するコンピュータへの実装も理論上は可能である点でプログラミング言語に、似ているとも言える。

しかし、あくまでも現実志向であり、むしろ現代日本語・現代日本社会に対する精神疾患者の違和感を記述することを目的としている点、プログラムとしての記述は副次的な目的である点で、それぞれの人工言語とは異なる。

岩崎氏は、解離性障害や統合失調症などの症状を持つ言語障害者や、言語表現を極端に不得手とする人に対する強い思い入れをもち、「人間が言葉を交わす」・「人間が他者に何かを伝える」とはどういうことかを考える行為の一つとして、 『岩崎式日本語』を創作している。そして、岩崎氏自身、その行為は芸術表現であるという自覚をもっている。

具体的にどのような使われ方をしているかというと、不安障害者・解離性障害者・離人症者・強迫性障害者などが、日々の食品・商品の買い忘れ、知人との約束の忘却、健忘・遁走による行動の混乱などを防ぐために日記帳・ノート・冷蔵庫に貼るメモ用紙など、 使用者自身が見る文章で使われている。

さらに、現代日本語文では冗長な説明口調になる傾向にある解離性同一性障害者の、心身の調子が悪く手を動かして文章を書くことが困難な時などの簡潔な記録。 家族・友人などに知られたくない学校・社会生活での苦痛体験などの記録や性的被害、性的症状、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、マタニティハラスメントなどの記録。 そして、詩・小説などである。考案者岩崎純一氏と使用者のあいだでやりとりされるメールや手紙の文章にも用いられている。 そのなかで、精神疾患者にとって十分な表現ができない場合があり、文法改訂の指標となっている。 また、現代日本語よりも言語学的・哲学的・論理学的研究に向いている部分もあり、岩崎氏自身が研究などに用いている。

わたしが岩崎氏と『岩崎式日本語』に出会ったのは4年前である。岩崎氏がわたしが学部・修士の過程で所属していたデザイン科で講義されたことがきっかけで、取材をはじめた。 当時より、わたしは、『岩崎式日本語』は文法構造によって「言葉とはなにか」を自己体現した言語表現だととらえていた。 言語芸術作品としての『岩崎式日本語』と、岩崎氏の考えそのものに、強く共感し、刺激を受けた。

『岩崎式日本語』においてわたしが特に興味を持ったのは、精神疾患者の自我の在り方を主格構造にとりこむことで、 人間の精神や感情が品詞や時制の枠組みそのものを変容させ、言語が成立していくという点である。

岩崎氏が自身のウェブサイト上で公開している『岩崎式日本語大全』より、具体的な使用例を引用しよう。 たとえば、『岩崎式日本語』では、「私は花に水をやっています。」という日本語文において、「私」の在りかたが変化するとともに、記号表記を用いた文章も変化し、自我の多様性があらわされる。 ここで記号表記について説明しきることはできないが、最も近い現代日本語訳とあわせて列挙したいと思う。

以下、「」内は『岩崎式日本語』の記号表記、( )内は読み、その下に現代日本語訳を記す。

「私Ga(SHU)は花に水をやっています。」
(ワタシは花に水をやっています。)
自我が明確なこの私自身によると、まさに私は花に水をやっています。

「私Ga(SHU5)は花に水をやっています。」
(ワシュゴは花に水をやっています。)
まさに私が花に水をやっているのであって、そうしているのが私以外の何者でもないことは、神に誓って真実であり、その真実性はいかなる場合も変化しません。

「私Ga(SHU1)は花に水をやっています。」
(ワシュイチは花に水をやっています。)
まさに私が花に水をやっているのは間違いないのですが、それはあくまで私の自我が判断したことです。

私Ga(KATSU)は花に水をやっています。」
(ワカツは花に水をやっています。)
自由意志の有無にかかわらず起こる全ての行為については行為者としての私の自我の存在を理解して生きる私は、今、花に水をやっています。

「私Ga(I-KATSU)は花に水をやっています。」
(ワイカツは花に水をやっています。)
意思的・意識的に行う全ての行為に加えて、自動的に起こる生理・自然現象の行為者としての私にも自我の存在を認めつつある私は、今、花に水をやっています。

「私Ga(I)は花に水をやっています。」
(ワイは花に水をやっています。)
意思的・意識的に行う全ての行為については行為者としての私の自我の存在を理解して生きる私は、今、花に水をやっています。

「私Ga(NO-I)は花に水をやっています。」
(ワノウイは花に水をやっています。)
可能な全ての行為に加えて、意志的・意識的に行う行為の行為者としての私にも自我の存在を認めつつある私は、今、花に水をやっています。

「私Ga(KI-NO)は花に水をやっています。」
(ワキノウは花に水をやっています。)
希求して行う全ての行為に加えて、可能な行為の行為者としての私にも自我の存在を認めつつある私は、今、花に水をやっています。

「私Ga(GU-KYU)は花に水をやっています。」
(ワグキュウは花に水をやっています。)
道具・人為的手段を行使して行う全ての行為に加えて、他者・対象に影響の及ぶ為の行為者としての私にも自我の存在を認めつつある私は、今、花に水をやっています。

「私Ga(GI)は花に水をやっています。」
(ワギは花に水をやっています。)
意識・自我の存在が仮定にすぎない私は、今、花に水をやっています。

「私Ga(SHU1,Gb)は花に水をやっています。」
(ワシュイッツは花に水をやっています。)
自我が何とか明確であることに過不足なく満足しているこの私自身によると、まさに私が花に水をやっています。

「私Ga(SHU1,Gkm)は花に水をやっています。」
(ワシュイットは花に水をやっています。)
若干の困難を伴いつつ自我を何とか明確に保とうとしているこの私自身よると、まさに私が花に水をやっています。

「私Ga(SHU1,Gki)は花に水をやっています。」
(ワシュイッチは花に水をやっています。)
自我を何とか明確に保つことに成功し若干歓喜しているこの私自身によると、まさに私が花に水をやっています。

「私Ga(SHU1,Gsi)は花に水をやっています。」
(ワシュイッテ)は花に水をやっています。
自我を明確に保つことに著しく成功し歓喜しているこの私自身によると、まさに私が花に水をやっています。

「私Ga{CS(I,KATSU-SHU)}は花に水をやっています。」
(ワシーエスイカッシュは花に水をやっています。)
私は基本的には、花に水をやる時は、明確に自分の都合でやる必要のある時は別にしても、自然に雨が降る時のようにやるべきだと思っていますが、今目の前にある花は、 なぜか人為的に水を注ぎかけるべき対象であると思いますので、花に対して優位な自我を持って花に水をやっています。

「私Ga(SHU1)は花Ga(SHU1)に水をやってGkmます。」
(ワシュイチは花シュイチに水をやっていロます。)
自我がなんとか明確なこのわたし自身によると、まさに私が花に水をやっているとは思いますが、花が私と同程度の自我を持ち、 私の手を借りて花自身に水をやっているかもしれず、この現状の把握に若干の困難を感じます。

「私Ga(SHU2,SHU4)が花Ga(SHU3,SHU1)に水をやっていGkmす。」
(ワシュニシュヨンは花シュサンイチに水をやっていロます。)
自我がほんの少し抑えられていながらも、稀にかなり明晰になることがあるこの私自身によると、まさに私が花に水をやっているとは思いますが、 花を見ていると、花はなかなかの明晰な自我を持って、私の手を利用して水を得ているのではないかと思われ、その明晰さは影をひそめることもあり、 全体として私の自我より明晰ではないでしょうが、この現状の把握に若干の困難を感じます。

(岩崎純一のウェブサイト: http://www.iwasaki-j.sakura.ne.jp/ 2015年12月閲覧)

『岩崎式日本語』は、単なる構想ではなく具体的な用例を数多く持つ。その膨大なボキャブラリーをあらわすために多くの引用をした。 ここに挙げたのは全体の一部分にすぎず、さらに多くの使用例が提示され、記号の組み合わせによる自我の多様性が表されている。 自我の在り方によっては、現代日本語の文法構造だけでは、自分の言いたいことにふさわしい言葉を選び出せない人間がいるのだと、この用例はわたしたちに自明と思ってきた「日本語」に対する異議を申し立てる。

言いたいことが言えないということは、言語文法の限界である。言いたいことをどうにか「言葉にしたい」と思う人間こそが、言語を表現の手段にするのではないか。 自分をとりまく言語文法に限界を感じることで、新しい言葉の生成方法を見つけようとするのだ。

今後も、『岩崎式日本語』の研究や岩崎氏への取材、そして、話者の方々との面会を試みることで、『岩崎式日本語』が言語芸術の文脈において「表現」であることを理論的に表明したい。 また、この表現を、文学や詩の枠組みのなかで活かすことを試みたい。そのことで、新しい視点で言語芸術をとらえたいと考えている。